
もうすぐ3月11日がやってきます。四年前のあの日、わたしは福島県郡山市にいました。夫の仕事のため、2~3年の予定で住んでいた、その最後の年でした。
はじめは携帯電話から流れてきた、奇妙な音からでした。聞き慣れない音に目を上げ、ちょうど家で仕事をしていた夫に「なに?」と訊くと、ポケットから携帯を取りだし、じっと画面を見て云いました。
「地震。大きいのが来るって!」
急いで娘を抱き、机の下にもぐりこんだとたん、家全体が大きく揺れ始め、棚から食器がとび出し、本棚が床に倒れました。突然、覆いかぶさってきたわたしと夫に驚き、泣き始めた娘は八カ月で、ようやくハイハイをし始めたところでした。
どのくらいの間、揺れていたのか分りません。ずいぶん長い間揺れていたような気がします。
地震があるまで、空はきれいに晴れていました。
けれど最初の揺れが収まり、ベランダから(うちは一階にありました)外にとび出し、娘を抱きながら余震にたわむ電線を見上げていたとき、ちいさな雪が突然、さあっと降ってきました。雪はどんどん強くなり、次第に吹雪のようになりました。
地震で水道管が壊れたのでしょう。マンホールから濁った水が勢いよく噴き出し、その水の勢いで蓋が大きくずれ、アスファルトがみるみるうちに水浸しになりました。その間も雪は降り続き、髪も服も見る間にまっ白になっていきました。
断水したこともあり、その日は夜中まで、近くの避難所に入りました。
周囲に気を使わぬようとの配慮からでしょう。わたしたちは、子ども連ればかりの部屋を割り振られました。部屋には、うちの子と同じくミルクやおっぱいの赤ちゃんも大勢いて、どのお母さんも緊張した面持ちでした。繋がらない携帯電話を手に、仕事に出た夫と連絡が取れないと、心配そうに話すお母さんもいました。
余震は頻繁に続いていました。小学生くらいの子が、絶え間なく入る緊急地震速報に耐えきれず、吐いてしまいました。わたしもその後一年ほどは、あの音を聞くと、地震直後に引き戻されるようで、混乱し、不安になることがありました。初めての育児で気が張っている時期に起きた、大きなできごとだったからかもしれません。
避難所にいるときは、いま思うと不思議なくらい、なんの情報も入ってきませんでした。
津波がすごかった、とか、大きな地震がいくつも起こったらしい、とかそういう断片的な情報はいくつか入ってきましたが、肝心の原発については、ほとんどなにも知りませんでした。
部屋にテレビがなく、避難所の入口に行かないと観られなかったのも、原因かもしれません。また自宅を出たせいで、インターネットを見る環境にもありませんでした。続く余震のなか子どもの世話をするだけで正直、精一杯で、ゆっくり情報を仕入れている暇がなかったのです。
だから原発がなにやらひどいことになっているらしい、と知ったのは、翌日の午後、つまり建屋が爆発する直前でした。
あの時、わたしは娘とふたりで自宅にいました。車にガソリンを入れに出た夫は、売り切れと長蛇の列で、しばらく帰って来られませんでした。そんな時、少し前からつけていたNHKテレビからアナウンサーの声が聞こえてました。
「あれ、ここ、建屋がないような……気がしますが……ここ、ここです」
そうして事故前・事故後の原発を映した映像が、画面の上下に映されたとき、まさか、と思い、ああ、と思い、どうしよう、と思いました。
原発がある海沿いまでは、一度、車で行ったことがあり、それほど離れていないことを知っていました。あたりの景色が一気に変わったような気がしました。急いで貴重品をまとめはじめたその手が、おもしろいほど震えており、ああ、人はこういう時、ほんとうに手が震えるんだなあ、と思ったことを覚えています。
結局、郡山を出たのは、その日の夜七時すぎでした。
二千円分だけガソリンを入れることができた車で、新潟まで下道で抜け、県境を越えたところにあるインターから高速道路に入りました。当時の高速道路は、緊急車両通行のため、福島を含む被災地は全線通行止めだったのです。
「トイレにいけなかったら、最悪、○ちゃん(娘)のオムツだからね!」
避難する車で、下道はたぶん大渋滞だろう。勝手にそう思いこみ、実家の妹(元看護士)にオムツ・アドバイスまで受けて飛びだした道は、しかしどこまで行ってもあっけないほどガラガラで、車が進む度に、壊れていない信号機、営業中の店が増えていき、自宅近辺にはなかったその「日常」に、緊張しながらもホッとした記憶があります。
その後わたしは、夫とわたしの実家である大阪と愛知を行き来したのち、愛知の実家近くで約一年間、娘とふたり、仮住まいをしました。
あれから四年経った今では、もうなにも思いませんが、正直、震災直後のまだ状況が不安定だったころは、主人が福島に戻るのは、やはり不安でした。いろんな情報が錯綜しており、全体像がいまいち見通せなかったのです。
わたしが帽子を作ったのは、ちょうどそんなときでした。報道で、外出の際は帽子をかぶること、マスクをすることなどが、対策の一つになる(かも)と聞き、頭のサイズが大きく、それゆえ既製品で入る帽子がほとんどないという主人に、ひとつ作ってみようと思ったのです。
多くの人がそうだったと思いますが、あの頃のわたしは、なにをする気にもなれませんでした。
たくさんの人々が亡くなり、おまけに思いもよらなかったできごとが、現在進行形で起こっている。そんななか、本を読むことも、雑誌を読むことも、街に出ることも(ちいさな子がいたので、そもそも無理という話もありますが)、すべてがウソのようで、そんな気分には到底なれませんでした。もちろん書くことだって、当時、出す予定のものがありましたが、なにを書いていいか分らなかった。
でも手を動かし、なにかを作ることはできました。そうすることがつらい気持ちになりがちなあのころ、罪悪感を覚えず、唯一、楽しいと思えることでした。無心で作っていると、砂でできた世界が少しずつ現実味を帯びていくようでした。
だから帽子を作ったのも、半分は彼のためでしたが、もう半分(もしかしてそれ以上)は自分のためだったのかもしれません。
その帽子も色あせ、ついこの間、四代目を作りました。
型紙をおき、布を切り、アイロンをあて、ミシンをかける。決して得意ではないそれらの作業をしていると、わたしは震災直後のあのころに戻っていきます。
テレビから流れるACジャパンのCM、頻繁に入る速報ニュースの音、スーパーから消えた水と納豆、散歩に出た娘と摘んだ花。四年余りが経ち、あそこからずいぶん離れたような気でいますが、あの日々は、もしかしたらすぐそこ、明日にでも始まってしまうくらいすぐそこにあるのかもしれない。単調なミシンの音を聞いていると、そんな風にも思えてきます。
あの避難所のお母さんたちは、いまなにをしているのかと時々、考えます。