
寝る前は本の時間という方、とくにちいさなお子さんのいるご家庭では、結構、多いのではないでしょうか。我が家でも、ご多分にもれず消灯前は読書(というか読み聞かせ)の時間。
本を選ぶのは子どもの役目で、同じ本ばかりを持ってくる時期もあれば、 読んだことのない本ばかりを選ぶ時期もあります。
その娘が、ここ最近、はまっているのが「モモちゃんとアカネちゃんシリーズ」です。
「モモちゃんとアカネちゃんシリーズ」は、ご存じの通り、松谷みよ子さんによる児童文学の名作です。
『ちいさいモモちゃん』から『アカネちゃんのなみだの海』まで、ぜんぶで六巻あり、最終巻が出たのはなんと1992年。完結まで三十年かかった長期シリーズだそうで、お話のなかのモモちゃんも、最後は中学生のおねえさんになっています。
じつは、このシリーズ、わたしも小学生低学年のころ、おそらく三巻あたりまで読んだことがありました。
パパとママが離婚したり、ママのところに死神がきたり。作者である松谷さんが、自らの家庭をモデルに記したというお話のなかには、児童書にしてはなかなかハードな内容も多分に含まれ、最初は4歳児にこれが分るのか? と、案じながら読み進めていたのですが、そこはやはり名作でした。
「次はなんのお話かねえ?」
分っているのか分っていないのか不明ながら、当の本人はいたく気にいったようで、毎晩、熱心に読んでくれとせがんできます。
しかし自分が子どものころに読んだ児童書を、大人になり、親になってからもう一度読むというのは、なんだかとても変な感じですねえ。
たとえば、ママの帰宅が遅くなりモモちゃんが怒り狂うシーン(モモちゃんのママは「お仕事ママ」なのです)、はたまた水ぼうそうになったモモちゃんがキュウリの「いぼいぼ」にお薬代わりの糊を塗ってしまう場面。
読んでいるわたしの気持ちは、昔読んだ時のようにモモちゃんの「怒り」や「喜び」に大きく共感する一方で、そんなモモちゃんの様子に「つらい」とか「困った」と感じる親の気持ちにも強く傾きます。
それはまるで、一つのシーンを違う角度から撮った二重写しの映画を観るようで、いったいどちらに焦点をあてて観ればいいのか。なんだかどうも混乱するのです。
そういえば、わたしが子どもを産むはるか前のこと。なんのきっかけでそうなったのか、実家の母と映画館で「千と千尋の神隠し」を観たことがありました。
たしか映画が始まってすぐでした。ふと横を見ると、母が泣いてました。豚になったお父さんとお母さんにショックを受けた千尋が、泣きながらおむすびを食べるシーンだったと思います。
そのシーンを、これから始まる冒険の幕開けとして胸躍らせて観ていたわたしは、突然泣き出した母に、いたく困惑しました。「あ、あの、ちょっと、なに?」と、よく分らないところ(とその時は思った)で泣く母を恥ずかしく思ったことを覚えています。
一度持つと、なかなか外せない。そういう意味で「親としてのレンズ」を持つことが、良いことか悪いことなのかは、正直、わたしにはよく分りません。
でもこのレンズのおかげで、以前は気がつかなかった感情および視点を知ったこともまた事実です。たぶんいまのわたしは、千尋が泣きじゃくるあのシーンで、あの時の母と同じように泣いてしまうことでしょう。
さて、一巻から少しずつ読み進めてきたシリーズも、来週、いよいよ最終巻に突入します。巻末についているあらすじ紹介によりますと、どうやら最終巻『アカネちゃんのなみだの海』で、モモちゃんとアカネちゃんのパパが死んでしまうようです。
ああ、わたしは冷静に読めるのでしょうか。読みたいものです。
『ちいさいモモちゃん』他、全六冊 松谷みよ子 講談社
文中、ひんぱんに出てくる「もうせん」という言葉は、「ずっと前」「以前」という意味の東京言葉なのだとか。「モモちゃんとアカネちゃんシリーズ」は、いろんな版型で出されていますが、我が家では読み聞かせ対応として、寝転がって読んでも重くない、文庫および新書サイズの「青い鳥文庫」で揃えています(上画像は旧版の文庫で、現在は酒井駒子さん挿画の新版が発行されていますよ)。