

「水の道」を知ったのは、五六年ほど前のことでした。
きっかけは「きよのさん」だったと思います。
「きよのさん」とは、山形県鶴岡市の豪商の主婦。今から230年余り前、1787年に生まれた、実在の女性です。
そして『“きよのさん”と歩く江戸六百里』(金森敦子・注1)は、彼女が記した旅行メモ(道中日記)を、歴史家である金森敦子さんが読み説いた一冊で、わたしが「きよのさん」を知ったのも、この本からでした。
当時の国内旅行は、「往来手形」というパスポートが必須、というところからして、今の海外旅行と同じくらい、いや、それ以上の一大事であったことでしょう。きよのさんは、そんな時代、連れの男性ふたりと鶴岡を発ち、江戸から伊勢をまわって京に寄り、北陸を通って帰ってくるという、総日程108日の長旅をこなします。
関所抜けをしたり、遊郭見物(注2)をしたり、都会で着物やら雑貨やらの最新アイテムをここぞとばかりに買いこんだり。武家ではなく商家の、それも家付き娘という境遇もあったでしょうが、貪欲に旅を楽しむきよのさんは、じつにたくましく、行動的で、教科書にのっていた「封建社会の女性」とは、ずいぶん様子が違います。
立派に整った江戸時代の旅行システムとか、お土産や名物といった今も変わらぬ日本の旅文化とか、この本で知ったことは多々ありますが、なんといっても面白かったのが、きよのさんがあたりまえのように使っていた「水の道」でした。
たとえば、彼女は旅の始めからして、最上川を舟でどんぶらこっことさかのぼります。また大阪から京都へは、夜汽車ならぬ夜舟で寝ている間に淀川をさかのぼり、伏見に到着(どうやらこの二都間は、舟で移動、が当時の旅の基本だったらしい)。琵琶湖では二度ほど舟に乗り、道のりをショートカットしています。他にも福井から三国湊へ、九頭竜川などを使って下ったり、富山の沼津では番所抜けのため、海上を闇夜に紛れて糸魚川まで航行したりもしている。
「川」も「海」も、明治以前の人々にとっては、等しく「道」だった。歴史に詳しい方にとっては先刻ご存じの話でしょうが、鉄道や道路が見事に発達したあと、「道」といえば「陸上の道」しか思い浮かばなくなっていた昭和生まれのわたしにとって、それは地図に隠された秘密の道が、ふいにあぶり出されたような驚きでした。
当時、東北に住んでおり、趣味でお菓子を巡る旅をしていたことも、「水の道」にさらなる関心を持つきっかけのひとつとなりました。青森の久滋良餅や山形の雛人形など、古くから伝わるお菓子や文化のなかにも、海や川の「道」を通して広まったものが少なくないことが、旅してまわるなかで、うっすらとですが分ってきたのです。
そこでここ何年か「水の道」関連の本を読んだり、ゆかりの場所に行ってみたり、日々、勝手に自由研究している訳ですが、先日、行った琵琶湖周辺もそのひとつでした。

ものの本によりますと、江戸時代までの琵琶湖は、「水の道」界(?)において、大きな力を持つ場所だったのだとか。
京都や奈良にほど近く、湖上を舟でゆけば、最短距離で日本海へ出られる。北前船による西廻り航路がさかんになる以前、江戸時代中期までの琵琶湖は、敦賀に陸揚げされた北陸や東北の物資を京へ運ぶ際に使われる、運河のような湖でもあったそうです。
電気や石炭がなく、今よりもっと時間がゆるやかに流れていた時代。たくさんの荷物を楽に運ぶことのできる「水の道」は、さぞ重宝したことでありましょう。
天智天皇による「近江大津宮」が、今の大津市に造られたのも、古代の大津が国際的にも、国内的にも重要な「港」であったからだといいます。それを示すように、都周辺からは渡来系集団の集落や、オンドルに似た住まいの跡などもみつかっているのだとか。
今回、壬申の乱で短命に終わった都、という歴史の授業で習った、おぼろげな単語をぶつぶつと復習しながら、近江大津宮があった辺りに建つという「近江神宮」にも寄ってみました。
近江神宮は、少しばかり変わった神社でした。場所こそ琵琶湖のほとり、近江大津宮跡にありますが、神社自体の歴史は比較的新しく、昭和15年創祀だといいます。
御祭神はあの天智天皇。境内には、日本で初めて時報を始めたというかの天皇にちなみ、水時計(オメガ社製)、火時計(ロレックス社製)、そして珍しい時計を展示する時計館宝物館もありました。
お守りも独特で、水色の「ときしめす守」というものは、「時の神様」である天智天皇が、進むべき時と道を示して下さるというありがたい一品。
また、三つ目の赤オニ(若干キュート)が砂時計を持つ「三つ目守」というのもあり、こちらは三つの目で「過去現在未来を見つめ、将来の開運を展望する」という、魔法の望遠鏡のようなお守りでした。
ちなみに近江神宮は、新年の百人一首競技カルタ大会が開催される神社でもあるようで、参拝者の中には競技カルタをテーマとした漫画(『ちはやふる』)の愛読者らしき若者の姿もちらほらと見られ、彼らを対象としたお守りグッズもありましたよ。
きよのさんが旅に出たのは、31歳のときのことでした。
現代の感覚でいうと、身軽で楽しい「女子旅」適齢期ですが、そこは寿命などが異なる江戸時代のこと。このときすでに14歳の長女と、手がかからなくなっていた長男がいたのだとか。子育てが一段落した後の自分へのご褒美のような「大旅行」だったのかもしれません。
次はどんな場所にたどりつくのか。各地の名所旧跡を次々に制覇してまわるきよのさんの旅行は、ほんとうに楽しそう。今はなき「水の道」に素直に感心してしまったのも、そんなきよのさんの姿があったからこそだと思うのです。

//www.chikumashobo.co.jp/product/9784480429155/
注2…明治45年(大正元年)、「青鞜」で知られる平塚らいてう等「新しい女」たちが、遊郭見物をして大バッシングを受けた「吉原登楼事件」がありましたが、江戸時代の吉原は一種の観光名所で、見物に訪れる女性の姿が絶えないような場所であったとか。また他の旅行記にも、らいてう達と同じように男性と一緒に遊郭にあがり、遊女たちと酒を飲んだ女性の姿があるので、吉原イコール男しか入れない場所では決してなかったようです。